鍬と包丁、そしてペン「茶摘み」

茶摘みは根気のいる仕事だ。柔らかい葉を一枚一枚指先でつまんでちぎる。何枚か続けて摘んで、それを手のひらの中に握りしめておき、5、6枚たまったら籠に入れていく。それを繰り返していくのだけど、ややしばらく集中して摘んで、もうかなりの量を摘んだだろうと籠の中を見ると何のことはない。籠の底の方に、秋の初めの公園の落ち葉程度にうっすらと緑色の茶葉が広がっているにすぎない。

摘んでも摘んでもなかなか量(かさ)は増えない。めご(腰に括りつける籠)いっぱいになるまで摘もうなどと目標を立てたら最後、見た目はのどかで楽しげな作業が、苦行に変わる事間違いない。
昔の人たちが茶摘みだけではなく、たとえば田植えや麦踏みや草刈りなど、さまざまな単純労働をするときに、きっと複数の人で手伝いあって、おしゃべりしたり労働歌を歌ったりしながら、作業が苦行にならないようにしていたのが納得できる。変化が少なくて終わりの見えない単純作業というのはなかなか辛いものだ。

茶摘みでは、もう一つ悩ましいことがある。それは茶葉がありすぎるということ。この時期、我が祝子川の里山には至る所に自生する茶の木が無限の新芽を伸ばし、無限の若葉をキラキラと輝かせている。たとえば茶の木が先祖代々守られてきた五本しか無いとしたら、迷わず大事に丁寧に全ての若葉を摘むだろう。ところが現実は、一本の茶の木の一本の枝を手繰り寄せて摘み始めた途端に、隣の枝の若葉に目をとられて、そっちの枝に浮気してしまう。さっきの枝にもまだ、ちょうど頃合の茶葉が残っているのに、だ。浮気した次の枝を2、3枚やっつけたと思ったら次の枝。次は向こうの別の木が気になってくる。結局あちこちうろうろしてしまって、「つまみ食い」ならぬ「つまみ摘み」を繰り返して、もう飽き飽きという羽目になるのだ。かくして短気で気ぜわしい僕などは、早く茶炒りを始めたくて、「めご」半分も摘んだところで「よっしゃ!今年はこのくらいにしとこう」となってしまうのである。もっとおしゃべり好きか、民謡好きに生まれれば良かったと、今でも思うことがある。

今年はスタッフやその子どもたちも参加して、なんとか一釜分の葉を摘む事ができて、釜の修理もしながら美味しい茶に仕上げることができた。ちゃんと毎日お茶を飲む一家庭が、一ヶ月で飲み切るくらいの量だろうか。来年はもう少し気長に摘めないものか・・・民謡の練習でもしてみるか?

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