鍬と包丁、そしてペン_田を作る1

米作りを始めて10年ほどになる。今は亡き父が「田んぼをやめる」と言ったのがきっかけだった。体力の問題と、鹿やイノシシなどの獣害と、構造的な問題として、かける労力と経費と収穫とのバランスが取れない事が、先祖から受け継いだ棚田での米作りを諦める要因だった。自分達が食べる米なんて、買った方が安いに決まっているのだから。
それまでの僕は父の米作りを少しずつは手伝っていたが、全体像を知らないままだった。ただ、美しい棚田が他の耕作放棄地のように荒れていくのは何としても嫌だったから、家族に宣言した。
「俺がやる!」
両親も兄弟たちも、家族は全員反対した。理由はいろいろあって、みんなもっともな意見だった。ただし、僕は全く聞く耳を持てなかった。
「これは俺の道楽だから、勝手にやらせてもらいます。皆んなには一切迷惑はかけないから。米はろくに収穫出来なくてもいいんだ。レンゲの咲く棚田の景色を残したいんだ。」
と、子供のような事を言い張って、早速その年から米作りを強行したのだ。手伝いをした時の記憶と、聞けば答えてくれる父のアドバイスを頼りに…。

父が生きていた2、3年の間はそれなりに収穫が出来た。仕事でなかなか田んぼの世話が出来ない僕に代わって、こっそり父母が水の管理やら草取りをしてくれていたのかもしれない。
父が他界し、収穫量は落ちた。父の時代の半分以下になった。稲の病気、低温障害、雑草のヒエに栄養を取られて育たない、ようやく実った米を、稲刈り直前にイノシシにほとんどダメにされる事もある。父が田んぼを諦めた理由が骨身に染みて今分かるのだ。それでも僕は今も米作りが楽しいとさえ思う。何せこれは道楽なのだ。他の人がゴルフやキャンプや釣りやクルマなどの趣味に時間とお金を費やすのと同じ事だから。

今僕は病院のベッドにいて、点滴の針を左手に刺されて、右手だけでスマホに文を打っている。父が亡くなる時に闘病した同じ病院だ。ただし僕の場合、親知らずを抜く為の手術。今年の田植えを無事終えて、満を持しての入院、気楽なもので、あの頃毎日通った同じ病院で田んぼと父の事を思い出したというわけだ。
あれから一年も休む事なく田植えに漕ぎ着けている。
その苦労と楽しみを次回書いてみよう。

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